西南の役 |
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西南の役 |
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| 西南の役 西南の役は明治10年(1877)、西郷隆盛の率いる鹿児島士族が起こしたわが国最大の内乱で、明治維新の総仕上げとしての役割を果たした戦争です。 熊本は、ほぼ全域が戦場となり、熊本城の炎上、田原坂の激闘がよく知られています。当時熊本城は谷干城を司令官とする熊本鎮台が置かれており、薩軍の攻撃目標の第一。ところが薩軍到着の2日前に熊本城はナゾの炎上をとげ市内の中心街も一面火の海になってしまいました。 田原坂 熊本市の北、約10キロメートルの植木町を中心に戦いの跡が扇形に広がっている。一つ一つの場所が、それぞれの事実のもとに強く私たちの心を揺さぶる。 いま、日本一のスイカ、メロンの産地が豊かに広がる和やかな農村風景の中に緒戦の地・向坂や千本桜、“天王山”とされた田原坂、さらに吉次峠、激戦地の余りにもの多さに驚く。つい百三十年前のことだけに平和な今のたたずまいと比べてとまどいさえ覚える。 麓の豊岡橋からの標高差僅かに80メートル、田原坂の頂まで距離にして1500メートル、曲りくねった道が続く。一の坂、二の坂、三の坂、歩くには息があえぐが車ではすぐだ。今も道の両側は高く、樹林や竹林が迫ってくる。見通しもきかない。 この平凡な坂道が「何故?」と誰でもが疑問を抱くに違いない。 当時の地形や道路を頭に入れないと判らない。この一の坂〜三の坂の道だけが砲隊が通れる唯一の道路であった。福岡方面からの救援の政府軍はこの田原坂の丘の道を越えないと熊本へは進めない。 薩軍はそのルートを断つために田原坂を固めていた。今も道は当時のままだ。狭い道は大軍は通れない。少人数で進めば狙い撃ちにされたり、示現流で切り込んでくる。政府軍は攻めあぐんだ。 この小さい丘をめぐって十七昼夜の死闘が続いた。白刃をかざした両軍の激突が繰り返された。3月4日から20日まで両軍の死闘が続く。毎日32万発の弾が十七昼夜続いた。 3月20日、前夜からの雨と霧、官軍はこの霧を利用して総攻撃!ついに薩軍は田原坂を放棄し南下。それを契機として戦局は大きく変っていく。 西南の役の命運をわけた田原坂での戦死者は、政府軍1700名弱、薩軍もほぼ同数で西南の役の約4分の1に当たる凄絶さだ。 |
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