菊池一族の興亡

菊池一族の興亡

菊池一族の興亡

菊池一族の活躍の歴史は肥後一国のみならず、平安期から鎌倉、南北朝、室町へと移り変わる日本史の変革期には必ず名を連ね、その命運を握ったと言っても過言ではありません。
日本全土を舞台にし、公家と武家が権力を争った時代、菊池の名は日本中に鳴り響いたのです。


藤原氏の血を引く菊池一族が肥後に入国したのが延久2年(1069)。初代・菊池則隆のときで、ここから一族興亡のドラマが始まります。

菊池氏2〜6代の時代はちょうど奥州平泉の藤原文化が花開いた時期でした。4代経宗、5代経直は鳥羽院武者所として中央で出仕します。

時に源平合戦が起こり、6代隆直は以仁王の命をうけて源氏とともに平家を討ちますが、後に平家側である安徳天皇に従い平家方に。平家が破れると菊池氏は鎌倉幕府から疎まれ、7代隆定時代には不遇の時期を迎えます。


10代武房
鎌倉時代の中期蒙古襲来時における、10代武房の活躍です。2度にわたって蒙古軍は北九州に襲来しました。(1274年・文永の役、1281年・弘安の役)時の幕府は西国の武士に出動を命じました。このとき肥後から出陣したのが武房、竹崎季長、大矢野三兄弟です。彼らの奮戦で蒙古軍は退散。

12代武時
元弘元年(1331)後醍醐天皇は、隠岐へ島流しとなります。そして京都では別系の天皇が即位。京畿では楠木正成が挙兵するなど、世は騒然としていました。12代武時は、後醍醐天皇の勅詔と錦旗を奉じて、九州探題の北条英時を攻略。単独で一族郎党と探題に突入し、勇戦しましたが・・・・。敗戦必至と覚悟した武時は、長男武重を呼び寄せ、「故郷へ帰り一族を立て直して、北条を討つように」と遺訓を残して自害しました。「袖ヶ浦の別れ」として語り伝えられ、後の楠木正成の「桜井の駅の別れ」のモデルになったといいます。

13代武重
京都をめざす足利尊氏と新田義貞を大将とする朝廷方が箱根でぶつかったのが建武2年(1335)。このとき尊氏討伐軍の先鋒をつとめた13代武重は、千の兵を率いて箱根山に進撃。三千余騎の足利直義(尊氏の弟)と戦いました。武重は竹の先に短刀をつけた武器を作って待機。直義軍めがけていっせいに槍を突きまくり、大きな戦果をあげました。初めて採用された戦法で、「菊池千本槍」として今日まで伝承されています。

15代武光
後醍醐天皇は吉野(奈良県)へ移られ、尊氏は京都で別の天皇をたて、いわゆる南北朝時代を迎えます。その直前に天皇は皇子懐良親王を征西将軍に任命し、九州に派遣。親王は九州の南朝方の主力・菊池氏を頼り、苦節13年の後に菊池に入ります。
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